雲一つない青天。もう春は来ている。
杉田真一はチェンソーを始動させた。
耳障りな音にイラッとする。
洟が垂れてきた。
構うものか。
「20年の恨み………全切りだあぁぁぁ」
杉田はチェンソーを振りかざした。
当時の現場事務所は共同詰め所でタバコも吸えた
20年前、専門学校を卒業した杉田真一は、地元の塗装会社に就職した。
翌年の3月、御前崎市に出張に行った。
現場で朝のラジオ体操をしていると、突然くしゃみが出た。
それも連発で。また目の痒みも感じた。
ラジオ体操後、杉田は班長に呼ばれた。
「杉田よ、初日から風邪をひいたとは良い根性しているじゃねえか。おぅ?」
班長の濁声に、杉田は瞬時に首を左右に振った。
自分でもこんな経験は初めてだし、昨日の夕飯はコンビニ弁当とカップ麺を食べて22時に就寝。
今朝、ビジネスホテルで朝食を食べた時点では、何ともなかったのに。
杉田はくしゃみを我慢した。
「何でくしゃみを連発するんだ? あぁ? 目も真っ赤じゃねえか? 風邪だろ? あぁ?」
「す、すいやせん、班長」
「すみませんだろうがっ!」
班長がテーブルを叩いた。
銀色の灰皿が宙に舞って落下した。
「へえぇ…くしょん!」
班長の顔面に、杉田の洟と唾が飛んだ。
「くせっ。汚ねんだよ」
班長の鉄拳が杉田の右頬を捉えた。
杉田は仕事を早退し、病院に直行した。
当時はフレックスタイム制など皆無だったので、欠勤扱い。
結果は花粉症だった。
杉田の実家の裏山にも、沢山の杉の木が天に向かって伸びているけど、
花粉症になるなんて思いもしなかった。
「コップの水が溢れただと? なんで俺だけが花粉症に………」
翌日、現場に復帰した杉田。
この日も朝から快晴で3月にしては暖かく、また海からの風が強かった。
空中では大量の黄色い粉が飛んでいる。
まるで黄砂みたいだと杉田は感じた。
点眼し薬を飲んで防塵マスクを着用しても、外に出れば瞬時にくしゃみが出る。
目が痒く、常に洟が垂れている状態で集中などできるわけがない。
紙製の防塵マスクは、ぐちょぐちょに濡れている。
「杉田、また塗り忘れがあるぞ」
同期入社の小堀が言った。
「どこ? ああ………そこか」
塗り忘れていた箇所は、アングルの裏側だった。
「また班長から鉄拳が飛んでくるぞ」
小堀がニコッと笑った。
小堀は器用で視野が広く、気が利いて班長からも好かれている。
「ありがとう小堀。お前は小鼻が大きいのに、花粉症じゃないのか?」
杉田は聞いた。ちなみに小堀は団子鼻だ。
「関係ないだろう。それならお前は名字が杉田だから、スギ花粉になったのか?」
「ち、ちがう………」
「兎に角、洟をかんでこい!」
御前崎市の出張が終わった5月以降も、杉田の洟は垂れ続けた。
スギ、ひのき、ブタクサ、ハウスダスト、犬や猫の毛………。
杉田はいつの間にか、通年性アレルギー性鼻炎になっていた。
朝晩の服薬と点眼、通院………。
現場では相変わらず目の痒みとくしゃみに悩まされた。
塗ってはいけない箇所を塗ってしまい、取引先からクレームが発生。
別の現場では足場上でくしゃみを連発し、持っていた塗料缶が落下。
マンションの外壁がまるで返り血を浴びたような状態になってしまったのである。
杉田はこれ以上、洟迷惑をかけるのは申し訳ないと思い、退職することにした。
すると班長が激怒。
班長から何の愛情も感じられない右ストレートを何発も喰らった。
またマンションの外壁再塗布料金として、25万円を給料から天引きされた。
同期入社の小堀からは、鼻に塗るメンソレータムを8個も渡された。
2年間勤めたにも関わらず、杉田は誰からも優しい言葉をかけられることはなかった。
スギ花粉を発症し、さらに通年性アレルギー性鼻炎になったことで、
杉田の人生は大きく変わってしまった。
そして杉田の怒りも膨らんでいった。
【後編へ続く】
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