しゃがんでいる僕の股間に、何かが触れた。
「ひゃっ」
僕は立ち上がった。
確かに何かが、僕の股間に触れたのだ………。
出張先の漁港で夜釣り!
出張先の夜は、とにかく暇だ。
飲みに行くのは週に1度。それ以外の夕食は、ビジネスホテルで1人晩酌。
ビジネスホテル特有の狭くて暗い部屋は圧迫感があり、窓もほとんど開かない。
鏡のついたデスクの上で食べるコンビニ弁当………。
「これはいかん!」
翌日の仕事終わり、僕は後輩を助手席に乗せ、釣具屋に行った。
今宵、近くの漁港でアジを釣ることにしたのである。
きっかけは喫煙所だった。
15時の喫煙室。
僕たちの前のテーブルで一服していた鍛冶屋職人。
前歯の無い50代と思われる班長が部下に対して、
「夜釣りでアジが入れ食いだぞ。釣れ釣れ。釣ってこいよ」と連呼していたのである。
僕はこれだと思った。
寂しいビジネスホテル生活からの脱却だ!
釣具屋の茶髪兄ちゃんに一式揃えてもらい、すぐ漁港に向かった。
漁港は予想以上に広く、沢山の漁船が係留中。
すでに夜釣りを楽しんでいる人たちで賑わっていた。
僕らは誰もいない、常夜灯と常夜灯の間を確保した。
時刻は19時になろうとしている。
8月の夜風は生温かい。
3980円のリールつき釣竿セットに、サビキセット(仕掛け有)を設置。
上からウキ、釣り針4本、サビキカゴの順だ。
サビキカゴに、割りばしを使用してアミエビを入れた。
割りばしは車内のダッシュボードにあった。これは幸先が良い。
周囲を確認した後で、僕は第一投を投じた。
いわゆるキャストだ!
放物線を描きながら、15mほど飛んだ。
リールを2、3回巻く。
海面に常夜灯の光が走っている。
この光に誘われて、アジの群れが寄ってくるのである。
釣竿をアスファルトに置いた僕は、紐のついた水汲みバケツを海面に落とし、
半分くらい汲んでから引っ張り上げた。
子供の頃から釣りをしてきた僕にとっては、簡単な作業だった。
後輩も釣竿を持って大きく振りかぶると、勢いよくキャストした。
ブチっと糸が切れる音がした………。
釣れる釣れる! 入れ食い状態!!!
前歯の無い班長の言う通りだった。
次から次へと常夜灯に集まるアジの群れ!
そこには沢山のアミエビが浮揚している。
これは魚たちにとって、まさに天国だ。
わずか30分で、15センチ前後のアジを8匹、20センチ程度のサバ2匹を釣った。
バケツ内は、すでに立錐の余地がなくなっている。
もちろん、僕一人の釣果だ。
後輩は僕の横に座り、ふて腐れながら缶ビールを飲んでいる。
糸が切れてしまった後輩は、釣具屋に向ったものの、すでに閉店。
コンビニに寄って、缶ビールと焼鳥を購入して戻ってきたのである。
帰りの運転代として、僕に缶コーヒーをおごってくれた。
僕はさらなる釣果を求めて、キャストした。
いつの間にか、僕は大量の汗をかいていた。
僕は交代で釣ろうと後輩に提案したけど、後輩はスマホから視線を上げなかった。
わずかに欠けている月が、こちらに微笑んでいる。
この明るさでも、ちゃんと星が見える。
子供の頃、よく親父の釣りにつき合わされた。
親父は器用で、自分で仕掛けも作っていた。
僕は親父に青イソメをつけてもらい、キャストを繰り返した。
たまに僕がイシモチを釣ると、親父が喜んで外してくれた。
そんな僕でも、気づいたら1人でエサをつけ、魚を触れるようになっていた。
親父は元気だろうか………。
しゃがんだ僕は、缶コーヒーを一口飲むと、目の前に置いた。
「臭ッ」
僕の両手は、尋常じゃないくらい臭かった。
生臭くてヌルヌルしている。
タオルを買っておけばよかった。
気持ち悪いけど、ここは我慢するしかない。
忍び寄る不穏な生き物・・・
釣竿をしゃくる暇もなく、ウキが沈んだ。
僕は釣竿を天に向かって上げた。
「ぶるぶる……ブルブルブル」
釣竿から伝わってくる、この感触がたまらないのだ。
ゆっくりとリールを巻いていく。
常夜灯に照らされたアジが見えた。
けっこう大きい。20センチはあるかも知れない。
僕は釣糸を手元に寄せると、左手でキャッチした。
食いが浅かったのか、アジがアスファルトに落下した。
これはいい。釣り針からアジを外す手間が省けた。
僕はアジを拾う為、「よいしょ」と言いながら、しゃがんだ。
その時だった。
僕の股間に何かが触れた。
「ひやっ」
僕は情けない声を出してしまった。
僕のしゃがんでいた隙間から出現したのは、野良猫だった。
キジトラ猫。わりと小さい。
キジトラ猫は、ピチピチと音を立てて暴れているアジに一直線。
右手でアジを抑えると、アジの喉元をガブっと噛んだ!
キジトラ猫は僕の缶コーヒーを倒すと、車の下に隠れた。
隣りで後輩が爆笑している。
生きているアジを食べるキジトラ猫。
目が光り、喉を鳴らしながら、バリバリバリと音を立てて骨を嚙み砕いていく………。
音がやんだ。
見ると、アジの頭を残して、あっという間に平らげてしまった。
キジトラ猫は、そのままグルーミングを始めた。
キジトラ猫は、ずっと僕の後ろでチャンスを伺っていたのだ。
鳴かずに我慢し、僕のくるぶしに頭をこすりつけることも堪え、虎視眈々と狙っていた。
僕は本来の野良猫の姿を垣間見れたと同時に、野良猫が怖くなった。
しばらくの間、トラウマになるかも知れない。
グルーミングを終えたキジトラ猫は、お尻を左右に揺らしながら宵闇に吸い込まれていった。
この後、ピタッと当たりが止まってしまった。
時刻は21時過ぎ。およそ2時間、釣っていたことになる。
お腹も空いたので撤収することにした。
釣ったアジとサバは、毎週通っている居酒屋に持って行った。
女将さんが快く受け取ってくれた。
コンビニ経由でビジネスホテルに到着。
部屋に入るや否や、僕はシャワーを浴びた。
手に付着した臭いは消えなかった。
トランクス一枚の状態で、缶ビールを飲んだ。
美味い。美味すぎる。
僕はコンビニ弁当を一口食べて思った。
「いつもと同じじゃん!」
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